「月かげ」(佐藤春夫)

えもいわれぬ美しさを湛えた幻想小説

「月かげ」(佐藤春夫)
(「夢を築く人々」)ちくま文庫

眠れない日々を重ねたある夜、
流れる水の音を感じて
目覚めた「私」が窓の外を見ると、
そこには深い夜霧が立ちこめ、
その霧の中を何か大きなものが
進んでいるのが見えた。
霧は次第に晴れ、現れたのは
大きな帆前船であった…。

真夜中の空を突き進む船。
それだけで驚きなのですが、
「私」の述懐は続きます。
反対側の窓を開けて見えたのは満月、
聞こえてきたのは水音。
再びもとの窓から外を眺めると、
噴水のまわりに現れたのは
水瓶を持った女性。
「私」が外へ出ると、
やはり美しい風景が広がっていた…。
と、筋書きなどなく、
ただただ夢のような情景が続くだけの
作品なのです。

それもそのはず、本作品は
以前取り上げた「指紋」に登場した
阿片中毒の友人R・Nの遺稿を整理して
見つかったものという設定なのです。
おそらくは阿片による
幻覚症状なのでしょう。
そんな話のどこが面白いのか?
本作品は筋書きを味わうものではなく、
その幻想的な文章を
堪能すべきものです。

窓から差し込む月光については、
「巾広な光が水のように流れ込む。
 その優しい光は、
 床の上へ落ちて
 そこへ凍りついて居る」

現れた帆前船については、
「風を孕んだ
 大小いろいろの帆の上には、
 月の光が、
 一つ一つの曲線の丸みを
 撫でるように滑って居る。
 そのために
 それぞれの張りつめた帆は、
 それ自身で
 光輝を持ったもののように見え、
 銀ねずみ色にどんよりとひかって、
 何とも言えず美しい。」

反対側の窓から見えた川については、
「鏡のようなというよりも
 この水一面が
 鏡そのものでないのが
 不思議なほどである。」

噴水の水音については、
「今までの絶え入りそうな
 水のひびきは、忽ちに
 劇しい水音になって、
 噴水の大水盤の横腹からは、
 ぎらぎら光り閃めきながら、
 水が白絹糸の太い束のように
 迸り出て居る。」

語り手「私」(R・N)とともに、
読み手である私たちも
夢の中の世界へと誘われるような、
えもいわれぬ美しさを湛えた
幻想小説です。
これは詩人・佐藤春夫でなければ
表し得なかった作品に
違いありません。

日本の探偵小説の
先駆けと考えられる作品「指紋」を
補完すべき本作品は
一転して幻想小説。
この二作品を続けて読めば、
佐藤春夫の創作の深奥を
窺い知ることができます。

(2019.5.4)

Mystic Art DesignによるPixabayからの画像

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